Fate/stay night [Heaven's Feel] Ⅲspring song

皆さんこんにちは。

タロスケです。

 

Fate/stay night [Heaven's Feel] Ⅲspring song(以下HF3章)見てきました。

www.fate-sn.com

 

僕のFateデビューはとても遅く、大学3年の冬にPC版から入り、FGOをはじめ、Hollow、zero、Apocryphaあたりを渡り歩き、EXTRAのゲームシステムがだるくて積んでる、そんなオタク。

 

DEEN版とUBWですら「PC原作やったし後回し♪」と言い放ったタロスケが、

HF3章を公開初日に見に行くなんて。よっぽど暇だったんですねという感じ。

 

地方都市に住んでいるので、すんなり初日のチケ取れたけど、当日行ってみたら満席(一席おきにしてキャパ50%)だったし、

検温したり、飲食物のゴミ回収もあるわけで、映画館も大変だなあと思いました。

 

今回も鑑賞済みが前提のネタバレを含むブログになってますので、ご容赦ください。

(以下ネタバレ含む)

 

あ。原作ゲームのネタバレも少し含みます。 

 

 

HF3章、皆さんどうでしたか。

個人的には正直「物足りない。2時間でやるものではなかった」という1点に尽きるかなと思っています。

バトルシーンは3章までのどれよりも濃密で、迫力があったし、

ストーリーの運びも非常にきれいで、桜を守る結果をきれいにすんなり導き出したなあという感想ではありました。

 

ただ、原作で味わったあの「何を差し置いても桜を守る」という臨場感が2時間で実現するのは難しかったなという感じ。

原作ゲームの中で我々は

セイバールートで「生き残ることを考えろ」と言われ、魔術師として戦う術を身に着け、

凛ルートで「理想を抱いて溺死しろ」と言われながら、”正義の味方”であることを自覚し、

いよいよ桜ルートというところで「俺は桜だけの正義の味方になる」ということを何度も反芻する選択肢を取らされました。

原作ゲームでも桜ルートは本当に異質で、信念に基づいた選択肢をとる、とり続けるということを要求されるルート。

言峰が「第5次聖杯戦争それは信念を貫く物語」って言うのはそういうこと。


The Essentials of “Fate Series” - 人類史最大の英雄譚 - | Fate/Grand Order 配信3周年記念映像

桜だけの正義の味方になるために、多少(ホンマに多少か?)の無理を押し通し、アーチャーの左腕という諸刃の剣を握る逡巡と決意を、しっかりと自ら選択肢を選ぶことで、士郎の追体験をしてきた。

「もってあと〇回」というなかで強行する投影、

投影をするたびにむしばまれていく(=アーチャーのように空っぽになる)精神と記憶、

絶望的に倒せる感のない、完全にラスボスと化した桜との戦闘、

(あとついでにセイバーを殺すという選択。筆者は殺せなくて初見でBadEND40を5回踏んだらしいよ、マジで。)

 

これまでに理解してきた冬木の人間関係のすべて、さらには士郎という自分自身でさえも「桜のため」に有用かそうでないかという視点で捉えなおすことこそ原作HF、桜ルートの本質であり、

最終的に桜が救われるのか、どうやって救われるのか(ルールブレイカーの伏線、めちゃくちゃ見事だよね。初見でクソ感動した。)

もっと言っちゃえば今回の映画のように士郎が助かるTrueENDなのか、

アンリマユと聖杯をぶっ壊すためにラスト一回の投影でエクスカリバーを投影して、士郎が現世とおさらばするNormalENDなのか、

という点は枝葉であると思う。

 

そういう点で言えば今回のHF3章は、あの追体験の臨場感が乏しく、全体的に話が客観的に進んだな。という印象。

それゆえに筆者個人の感想としては「物足りない」という結論になってしまう。

 

それを引き起こしたのは、

・2時間という尺の制限

イリヤ・言峰ルートであることを諦めなかった

この2点に集約されると思う。

先に断っておくが、桜の正義の味方としての士郎をより濃く描くために、どちらかは諦めて欲しかったという意味であって、

物語としてイリヤと言峰が余計だったというわけではない(二時間は足りなかったとは思っているが。)

 

尺については言うまでもない。

時間が許せば描写してほしかったのは

・アーチャーの左腕を使うことでむしばまれていくことへの内的な描写(外的な描写として体が刃で覆われるだけでは、さすがに不十分と言わざるを得ない)

・投影の残り回数の(モノローグによる)明示、および今はその時ではないという士郎の判断(この一回がないとNomalENDに行っちゃう)

・宝石剣投影までに至る、強化から投影への方針の転換(士郎をアーチャーの腕として認識していた凛が士郎として戦力認識をする&士郎に対してストッパーをかけようとする)

・個人的な欲で言えばルールブレイカーを投影すること自体に「これしかねえだろドヤッ」って演出が欲しいw

あたりだろう。

士郎に感情移入をするには、”周囲から見た衛宮士郎”に描写が偏っていたと感じた。

 

イリヤ・言峰の描写について

まずイリヤ。原作HFでは第4のヒロインとして扱われながらも、児ポ的な問題から単独ルートが構成されなかったといわれている。

 そのイリヤのシナリオが組み込まれたのがHFルートではあるので、今回の映画で描かれること自体には文句はないが、それならなおのこともう少し時間が必要だったのではないか。

ホームページに正装のイリヤが出てきた時点でTrueEND確定だったし、そのためには士郎がイリヤを守る助けるという意志を示す必要があるのも納得できる。

そのために

・「お兄ちゃんお姉ちゃん」の伏線を用意して尺を圧迫すること

・そもそもお姉ちゃん(ホムンクルス)であるという事実が、HF本編内だけでは物語が完結せず、視聴者の型月文脈の履修経験に依存していること

という犠牲を強いているという感はぬぐえなかった。

ただ、一点大聖杯を閉じ、「アイリスフィールと再会する」という描写を挟むことで、

いたずらにイリヤの救われなさだけが残らない演出だったのは、優しさを感じた。

イリヤが役割を受け入れていることへの冒涜だという見方もあるが、個人的には衛宮ごはんみたく守るもののないほんわかセイバーも許せているので、ここではあえて問わない。

 

言峰については、黒聖杯絶対守るマンとしての描写が激しく、なんなら今作で一番イデオロギーが鮮明に示されていたとまで感じる。

純粋に「相容れない」士郎と言峰が武力で決着をつけるラストという脚本は、

正義の味方としてあろうとしたことを、勝利によって肯定するという役割を持つ。

そのためには理屈では言峰の言を否定できないということが下敷きにある必要があり、

HF3作を通して、言峰を士郎と相容れない存在として描き続けてきたことをしっかり回収していることは評価できるが、

繰り返しだが尺の制約によって、ストーリーの主眼がずれてしまった感は否めない。

 

 

結局原作厨だから言っているだけで、「桜を救う物語」として定義するのであれば、

十分に物語として成立していたと思うし、

ufotable作画で描かれるバトルシーンを見るためだけでも見る価値があったと思う。

2章の黒セイバーVSヘラクレス(「バーーサーーーカーーーー!!!!」)に勝るとも劣らない、

最後の黒セイバーVSライダーは迫力の鬼。 

キャラ人気投票のライダーの受賞コメントできのこも

「FATE最大の見せ場、ベルレフォーンとエクスカリバーの激突は白・黒問わず、宝具決戦の象徴とも言える場面でした。」

って言っているだけのことはあり、まさに宝具決戦、TYPE-MOONのすべての思いを受けた演出だった。

http://www.typemoon.com/rank/fate_1st/04.htm


あの戦いの中でライダーが「彼は動きませんよ、私を信頼していますので。ああ。あなたは、そうでしたね」というセリフで

ヘラクレスを前にセイバーの前に飛び出し、セイバーの誇りを傷つけた過去を想起させたのは本当にうまいと思った。

あの過去を持つ士郎が動かないという事実こそ、すでに桜のためにセイバーさえも殺すという覚悟を決めていることの何よりの証左であり、セイバー殺せなかったマンこと筆者も、セイバーが殺されることをすんなり受け入れることができた。

 

 

というわけで、鑑賞後のTLの熱との差を、自分で整理して納得するために、修飾もつけずにダラダラと書いてきました。

結局のところHFルートを

「桜のだけの正義の味方衛宮士郎になっていく過程の物語」

ととらえるか

「桜を悪と切り捨てられない少し勝手な正義の味方が全部解決しようとする物語」

ととらえるかで見方が大きく変わってしまうかな。という一応の結論に落ち着いたところで、今回はここまで。

 

次はたぶん劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデンで書きます。